DA
5/96

004 dancyu gift食のかたち1文 村松友視 かつて、ふぐの季節の下関へ行き、旅館の部屋においてふぐのフルコースをひとりで食べるという、悲惨な時を味わったことがあった。これは、様々な事情がかさなった結果としての場面だったが、祭りのような雰囲気で愛でながら食すべきふぐの料理が、いかにもうらめしく感じられたものだった。そのときは、味の世界が、ひとりでは完結しないということを痛いほどにかみしめさせられたものだった。 ふぐという特別なものによって思い知らされたことでもあったが、食という世界はどうやらその問題に通じているのではないかとも思った。 極上に旨い食材、旨い酒があったとしても、同じセンスを共有できぬ相手とであるならば、ひとりの方がまだよいということもある。ウィスキーやブランデーならば、ひとりの中での満喫感、満足感もあるのだろうが、ワインや日本酒となればやはり相手が欲しい。食材ならばなおさらである。店のカウンターでひとり食べるのはまた別のはなしで、この場合は店の主人の仕切る空間であり、ふぐだって十分に満足できるケースが多い。旅館の部屋でひとりふぐを食べるのとは、全く別のはなしなのである。 酒についても食についても、何を飲むか何を食べるかという世界は、自分にとってもう過ぎたという気がする。全てのものを飲みつくし食べつくしたあげくのセリフというのではなく、ここまで出会わなかった酒も食ももはや追い求める季節は過ぎ、このあと偶然に出会えば幸運というくらいでよかろうという心境だ。 問題は、「何」を飲むか食べるかではなく、「誰と」飲むか食べるかなのだ。旅の途中で見つけた珍味や名物や死角となっているすこぶる付きの美味を、誰に贈って驚かそうと悪戯心をもであそんでいるとき、私は得も言われぬ快感にひたることがある。びっくり仰天している相手の顔が目に浮かび、贈る相手がいてありがたいという思いにひたる。一同に会する宴会ではなくても、それぞれの友がそれぞれの場所で、私の悪戯心を受け止めてくれているのを想像するのは、まことに愉しい時なのだ。旅先から贈る相手が存在することが、私の贅沢なのであり、やはり”もの“は”人“によって生きいきと輝くのだ。しかもこの悪戯は、旅に出た時でなくても、わが家に居ながらにして決行できる時代が到来したのである。贈る贅沢

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です