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054 dancyu gift食のかたち2文 村松友視 日本人の食のかたちは、ある時期から大きく変わったような気がする。 私が成長過程にある時期まで、何をおかずにして御飯を食べるかというのが、日本人の食卓における普通のかたちだった。戦後、銀シャリつまり白米が食べられる幸せがおとずれると、戦前にもあったこのかたちが復活した。すいとんや代用食の時代から、日本人の食事の基本に戻ることができたというわけだった。 魚、肉、野菜の料理、味噌汁、吸い物、漬物‥‥これらと御飯の組合せが、平均的な家庭における食事というものだった。その場合、主役はやはり御飯であり、食事とは何をおかずに御飯を食べるかという世界だった。その日のおかずにはかならず主役があり、きょうは鰤の照り焼きだった‥‥と言えば、脇役を従えた鰤の照り焼きを主役に御飯を食べたということになる。 そして、食卓に列んだ主役、脇役、端役のおかずと御飯が、食べ手の好みや気分によって組み合わされる。鰤、御飯、佃煮、御飯、味噌汁、御飯の順番だったり、味噌汁、御飯、鰤、御飯、焼海苔、御飯の順番だったりさまざまだ。つまり、いったん料理された食べ物を、御飯を基準にして口の中でもう一度料理しながら喉へ送り込むのが、日本人の食事のスタイルだった。 ところが、ある時期から銀シャリが特別のものではなくなるにしたがって、主役と脇役に微妙なずれが生じてきた。あらゆる素材との組合せで主役を演じてきた御飯の地位がゆらぎ始めたとも言えるだろう。あるいは、主役だけを演じてきた御飯が、ようやく脇に回って、余裕ある味わいを見せてくれるようになったと言えるかもしれない。 これは、食材のレベルが向上し、宅配便の発達が拍車をかけての現象だろうが、食べ手の味覚がより贅沢を求めるようになったことがそのベースにあるにちがいない。米は米できびしく価値を求められ、各地の食材や食の職人、あるいは文化にも目が配られるようになった。食材は、もはやおかずの域をはるかに超えて、主役に躍り出ているのだ。 そうやって食の興味が遠心的に広がってゆくと、記憶の底に眠っていた生玉子かけ御飯などの魅力が、不意打ちのように頭に浮かんできたりもする。いま、私たちはこの両輪を自在に味わうことができる時代を迎えているというわけである。食の両輪

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